2016年10月24日月曜日

ニコライ・ルィニンの"Межпланетные сообщения"復刊

かつて、深見弾編『ロシア・ソビエトSF傑作集』(創元SF文庫)の巻末開設で触れられていた、ニコライ・ルィニン(1877~1942)の"Межпланетные сообщения"(全9巻。1928~32年)のうち1~3巻が、先日から紹介しているПрестиж Бук社から、今年、復刊されていた。数年前に2巻と3巻は"Космические корабли"と"Лучистая энергия"として復刊されていたが、今回は第1巻から3巻までまとめて1冊で復刊されている。全9巻は宇宙に関するあらゆる情報を、神話からロケットの構造まで網羅的に扱ったもので非常に重要だが、第2巻と3巻は、それまでどういうSF作品が書かれてきたかという書誌情報としても読めるので、特に貴重な一冊なのである。こんな本が復刊されるとは、生きているだけでもありがたいことである。


2016年10月23日日曜日

イリヤ・ワルシャフスキイ3巻選集

Престиж Бук社から、今年、イリヤ・ワルシャフスキイの3巻選集が刊行された。彼が亡くなったのは1974年だが、2010年になって未刊行の短編が見つかり、出版されてきた。
彼の作品を再発掘して出版したのは、イスラエルの出版社"Млечный Путь"(イスラエル在住のSF作家のパーヴェル・アムヌエリが主導)で、”Электронная совесть”というタイトルの作品集を2011年に刊行した。しかし、この作品集はプリントオンデマンド形式で刊行され、なおかつ、ロシアから見れば在外出版となるのであまり流通しなかったのである。

ワルシャフスキイは1908年生まれで、SFを書きだしたのは1960年代になってからと遅く、軽妙なユーモアと機智に富んだ短編を得意とし、日本にも多くの作品が翻訳された。『夕陽の国ドノマーガ』(大光社)という邦題で短編集が刊行されている。その前半生は日本ではあまりよく知られていないが、彼の妻ルエッラは、1920年から21年にかけて一時的に成立した極東共和国の大統領アレクサンドル・クラスノシチョコフの娘で、『極東共和国の夢』(未来社)を著した堀江則雄氏は晩年の彼女にインタビューをしている。しかし、同書では彼女の夫のことは触れられていない。後半生のことも聞かれているはずだが、惜しい……。ルエッラはオシップ・ブリークの家に同居していたことがあり、リーリャ・ブリークとマヤコフスキイとの複雑な関係も目の前で見ていた。その頃に、ルエッラはイリヤと出会い、結婚したのだが、独ソ戦のレニングラード包囲の際は、命からがらイリヤが脱出したもののソ連側から身元を疑われてアルタイに送られるなど、厳しい体験をしてきてこられた一家である。

1929年に彼がドミートリイ・ワルシャフスキイとニコライ・スレプニョフとともに発表した旅行記"Вокруг света без билета"が今回刊行された3巻選集には再録されており、これは貴重な再刊である。1974年にボリス・ストルガツキイがレニングラードでセミナーを開催し始めたが、彼はワルシャフスキイのセミナーを引き継いだような格好でもあるので、セミナー文化の先駆者的存在でもあった。ワルシャフスキイは1920年代にはフェクス(1921年から26年にかけてぺテルブルグで活動した前衛的演劇集団)に出入りしていたこともあるが、その後は船員を目指したり、工場勤めをしたりで過ごし、1962年にSF界にデビューするまで小説の筆はとらなかった。1920年代に小説を書いていて60年代にSFを書いた作家と言えば、他にはゲンナージイ・ゴール(邦訳に早川書房の「世界SF全集」に中編「クムビ」が収録された)がいるが、共に時代をつなぐ作家として大事な人だと思う。

ちなみに、イリヤとルエッラの息子のヴィクトル・ワルシャフスキイ(1933~2005)はサイバネティックスの研究者となり、1993年から2000年まで会津大学で教鞭をとられた方である。知らないことは多いが、世界はぐるぐる回っている。



2016年10月18日火曜日

Престиж Бук社のレトロ冒険・SF叢書

Престиж Букという出版社が«Ретро библиотека приключений и научной фантастики»という叢書を刊行していることに最近気付いた。これまでに出たタイトル一覧と予定の一部は下記リンクを参照。

https://fantlab.ru/series3122

1920年代から50年代のソビエトSFを中心にした叢書だが、翻訳や現代作家(エヴゲーニイ・ルキーンやワシーリイ・シチェペトニョフ)の作品も含まれている。

とは言え、圧巻はやはり1920年代から50年代の作品群で、アレクサンドル・ベリャーエフやカザンツェフ、アダモフの再刊もあるが、セルゲイ・ベリャーエフやミハイル・ズエフ=オルディネツのような深見弾さんの文章でしか接してない旧世代のソビエト作家、さらに、私も聞いたことのない名前がたくさんあって興奮する。ウラジーミル・ケレルという革命前の作家の作品集は実に約100年ぶりの刊行である。

ゲオルギイ・レイメルスという作家の作品も全く知らなかった。1960年代に書いていた人だが...まだまだ知られていない作家が埋もれてるものです。

2016年5月7日土曜日

ロシアSFの英仏訳アンソロジー

 ソビエトSFが国際的に注目されたのは、1957年にイワン・エフレーモフが長編『アンドロメダ星雲』を発表し、それに刺激されてストルガツキイ兄弟たちが次々とデビューしたことによります。
 ソビエト政府系の出版社として«Издательство литературы на иностранных языках» (Иногиз)があり、ソビエト作家の作品を他の言語に訳して西側諸国で刊行するという公式ルートが存在しました。この出版社から出た英訳版には«Foreign Languages Publishing House»と記されています。1959年には『アンドロメダ星雲』の英訳版と仏訳版が刊行されました。他にもアレクセイ・トルストイの『技師ガーリンの双曲線』の仏訳版(1959年)、オブルーチェフの『サンニコフ島』の英訳版(1955年)、『プルトニヤ』の英訳版(1961年)、1962年のアンソロジー«Destination: Amaltheia»があります。最後のアンソロジーにはストルガツキイ兄弟の初期長編«Путь на Амальтею»(1960)のほか、ベリャーエフ、ジュラヴリョーワ、ドニェプロフらの作品が収められています。
この組織は1963年に改編され、以後はミール社、プログレス社として展開します。日本で刊行されたプログレス出版所の現代ソビエトSFシリーズはこの流れの中で出版されています。
このほか、1960年にアシモフの序文付きで刊行された英訳アンソロジー«The Heart of the Serpent»には、エフレーモフ「宇宙翔けるもの」、ストルガツキイ兄弟「六本のマッチ」、のほか、ドニェプロフ、サパーリン、ジュラヴリョーワの作品が収められています。このアンソロジーはタイトルを変えながらも、1962年、72年、2002年にも再刊されています。
1963年にイギリスで刊行された«Russian Science Fiction»にはドリス・ジョンソンの翻訳により、11の中短編が訳されました。こちらにもエフレーモフの「宇宙翔けるもの」は収録されていますが、作家の選定がかなり変わっていて、ツィオルコフスキイ、ベリャーエフ、ゼリコヴィチといった1930年代までの作家に加え、なんと、ワジム・オホトニコフの伝説的怪作«Автоматы писателя»(1947)も収録。主流作家ウラジーミル・ドゥジンツェフの短編が1本入り、他にはドニェプロフ、ジュラヴリョーワ、サパーリン、ミハイル・ワシリエフという顔ぶれ。
 1969年にNew York University PressUniversity of London Press Limitedからそれぞれ刊行された«Russian Science Fiction 1969»には、ブランジス&ドミトレフスキイの評論に、ドニェプロフ「カニが島をゆく」、ゴール「庭園」、シェフネル「内気な天才」、ワルシャフスキイ「深夜の強盗」のほか、ルコジャノフ&ヴォイスクンスキイやヴラドレン・バフノフの短編が収録されています。
 1970年代後半から80年代前半にかけてはマクミラン社がストルガツキイ兄弟の作品を続々と刊行するなどの動きがありました。日本で言うと深見弾さんがストルガツキイ兄弟の長編を次々と翻訳していく時期に当たり、国際的な連動を感じます。
さて、ロシアSFの紹介者としての私の悲願は、1970年代以降の中短編のアンソロジーを出すことです。これは深見さんもついにできなかった仕事ですが、ロシアSFの中短編の質量は相当に分厚いので出そうと思えば何冊でも出せます。問題は最初の一冊としてどういう作品を選ぶかという点です。
ひとつの参考として、モスクワのラドガ社が1989年に出版した«Tower of Birds»という英訳版のアンソロジーがあります。このアンソロジーには1970年代から80年代にかけて書かれた作品が収められており、収録作家もヴィクトル・コルパエフ、オリガ・ラリオーノワ、キール・ブルィチョフ、セルゲイ・ドルガリといった60年代から活躍するベテランのほか、ボリス・シテルン、ヴャチェスラフ・ルィバコフといったボリス・ストルガツキイのセミナー出身の新しい傾向の作家が収録されている点に見識の高さを感じます。ミハイル・プホフやアブラーモフ親子といった旧傾向の作家も入って、当時としては相当にバランスを重んじた編集となっています。全く無名の作家も何人か入っているのはご愛嬌ですが……。

 しかし、なんと言ってもこのアンソロジーの目玉は、表題作のオレグ・コラベリニコフの怪作中編«Башня птиц»です。以前に京フェスに参加した時に紹介したことがありますが、シベリアの奥地で火災に巻き込まれて道に迷った主人公が精霊の導きで鳥獣と交感できるようになり最後は科学文明を捨てるに至るというテーマもさることながら、ラストシーンで病に苦しむ自称銀河大元帥が登場するという衝撃のストーリー展開に仰天した記憶があります。ソビエト時代の非常に特色ある詩人であるニコライ・ザボロツキイの詩が冒頭に掲げられているのですが、コスミズムがザボロツキイを通過していったらこんなのができましたという印象です。この中編は質量の面から言っても1970年代から80年代の新しい作家を代表する作品という位置づけで、確かにその評価は間違ってはいないのですが、あまりにも独特すぎて他の作品の印象が消えてしまうという、まったく編者泣かせの作品です。いつか日本に翻訳紹介される日は来るのでしょうか……。

2015年4月16日木曜日

ロシアSFの歴史と展望-久野論文への補足

先日、スラブユーラシアセンターから公刊された『ロシアSFの歴史と展望』に収められた諸論文は2005年12月に開催されたシンポジウム「ロシア・スラブSF幻想文学の世界地図」に基づいたものです。
私が執筆したボリス・ストルガツキイのセミナーについての論文と、たいへん拙いものですが、現代ロシアSF人名事典を収録していただきました。参考になれば幸いです。
 
巻頭に収録された久野康彦「SFという観点から見たВ.Ф.オドエフスキーのユートピア小説」は、分析の枠組みが整理されていてたいへん啓発的でしたが、少し補足したいと思います。本論文はダルコ・スーヴィンの『SFの変容』に依拠し、SFとユートピア小説を区分しながら、オドエフスキーの未完の作品「4338年」(邦訳は『ロシア・ソビエトSF傑作集』(創元SF文庫)に収録)のSF性を論じたものですが、論文の結びで、20世紀初頭の象徴主義の文学者ワレリー・ブリューソフが作品集『地軸』(有名な中編「南十字星共和国」のここに収録)のチェコ語版のために書いた序文を紹介しています。その序文で、ブリューソフは、この作品集に収められた作品は「現実と夢、ファンタジーと現実の関係に関する永遠の問題をポエジーという手段を借りて説明しようとする」ものだと述べ、この謎にロシアの作家でアプローチしたのは、19世紀後半の詩人チュッチェフとオドエフスキーだと書いています。
それに続けて、久野さんは、「もしかすると、オドエフスキーのユートピア小説がブリューソフのそのようなSF的作品の創作に与えた影響があるのかもしれない」とし、「表面には現れないものの、オドエフスキーのユートピア小説が、20世紀のロシアのSFの創作に何らかの影響を与えたという可能性も皆無だったとは言い切れない」と書いています。
私は、ブリューソフへのオドエフスキーの影響には詳しくありませんが、以前にこのブログの記事(http://rufantastika.blogspot.jp/2014/07/blog-post.html)で取り上げたように、ザミャーチンがロシアSFの伝統に触れない形でウェルズ論を展開したことに対し、ウラジーミル・スヴャトロフスキーという人物が『ロシアのユートピア小説』(1922)という評論を執筆し、オドエフスキーやセンコフスキーの名をあげてロシアユートピア文学の伝統を強調しています。ザミャーチンはウェルズやベラミーなどの欧米の潮流にも通暁し、当代一流のSF眼を持っていた作家ですが、彼に対してすぐに反論できるくらいの研究の蓄積は1920年代にはあったということです。
ただし、問題は、ブリューソフも一翼を担った20世紀初頭のロシア文学の「銀の時代」の諸作品の幻想性が、SFとどのように関連付けられるのかという点です。ストルガツキイ兄弟の作品を論じたイヴォン・ハウエルの «Apocalyptic Realism: The Science Fiction of Arkady and Boris Strugatsky»は、『滅びの都』などストルガツキイの後期作品の黙示録的イメージなどを取り上げた非常に示唆に富む研究ですが、結論部で、ストルガツキイ兄弟は「銀の時代」の後継者であるという記述が出てきます。しかし、同書はストルガツキイ兄弟と「銀の時代」のベールイやブリューソフらの作品を比較したものではなく、唐突な指摘との印象を免れません。「銀の時代」と後の時代のSF的作品との関係はもっと緻密な研究が必要とされるところです。
ブリューソフはゴーゴリを「ファンタスト」と呼びました。ベールイにも大部のゴーゴリ論があります。かつてベリンスキーらによって自然主義作家として高く評価されたゴーゴリは、「銀の時代」に幻想文学的視点から見直しが進みました。したがって、ゴーゴリをファンタスチカの祖としてとらえるボリス・ストルガツキイの言い分には伝統があるのですが、ゴーゴリから「銀の時代」、ブルガーコフというラインと、オドエフスキーからのSF的伝統、そこにザミャーチンも含めると、ロシアのSFの歴史は非常に入り組んでいて、一言では言い尽くせないものがあります。こういう研究に本格的に取り組もうとすると間違いなく人生が終わってしまうと感じます。

2014年7月9日水曜日

エヴゲーニイ・シュワルツの「ありふれた奇跡」

業界の方々には常識かもしれませんが、 ロシア映画の字幕を起こしているサイトがあります。 

サイトはこちら、http://vvord.ru

モスフィルムの映画はYou Tubeの公式サイトで 無料でほとんど見られるのですが、字幕サイトを利用して、 さっそく"Обыкновенное чудо"(1978)を見てみました。 この映画の原作者は劇作家エヴゲーニイ・シュワルツ(1896~1958)の戯曲です。

戯曲のあらすじを紹介すると、いたずら好きの魔法使いが、かつて熊を人間に変身させた。 魔法使いはそのことをすっかり忘れていた(他にもいろいろなことをしているので、 ひとつひとつのことにあれこれ心を悩ますタイプでない)が、その人間に変身した熊くんが 魔法使いの家を訪ねてくる。「君は誰だっけ?」と聞く魔法使いに、熊くんは「熊です」と答える。 魔法使いの妻は、「あんた、生き物を好き放題にいたずらして、何て可哀そうな ことしてるのよ!」と魔法使いをしかる。すると、熊くんが「いいえ。怒らないでください。私は人間になって とても感謝しています」と言い、熊に戻るための魔法の解き方も聞いていると告げる。 魔法使いの妻がそれはどういう解き方なの?とたずねると、熊は「人間の恋人が現れて、キスをされると 熊に戻れるのです」と言う。魔法使いの妻は魔法使いに向かって、「あんた、また、なんでそんな 可哀そうなことするのよ!」と怒るが、魔法使いはいまいち気にしていない。 そうこうしているうちに、王女を連れた王様のご一行が魔法使いの住む村を訪れ、 その途中ではぐれてしまった王女が、それぞれの身分を知らないまま、熊くんと出会い、 恋に落ちてしまうという、なんともはやの展開になるのだが、やがて、自分が恋に落ちたことを 知る熊くんの絶望やいかに。

 しかし、この熊くんと王女を救う「ありふれた奇跡」(原題の直訳)が二人を待ち受けるのであった! それはなんでしょう? というあらすじの作品なのですが、映画で見ると何だか調子が外れている… コミカルな作品のはずなのに、魔法使い役のオレグ・ヤンコフスキイがむやみに怪しい。 原作ではちょっと抜けたおもろい人やけれど、画面で見ると妙に暗い。 そして、王様役はダネーリヤの映画でおなじみ、『不思議惑星キン・ザ・ザ』にも出演した エヴゲーニイ・レオーノフ(「クー」を連発していた背の低い丸こい身体の人)。 この映画では王様役で出演していますが、何の威厳もかもし出していません。 

そういうのが気になって、映画にはいまひとつはまらないのですが、 シュワルツはファンタスチカの劇作ではソ連時代随一という人で、他にも町を支配するドラゴンを 決闘で倒す伝説の勇者の話「ドラゴン」も大爆笑の作品。 ドラゴンは自分を伝説の勇者が倒しに来ると知っていて、ついにその勇者が目の前に現れるんだけど、 あの手この手を使って、決闘の日を引き延ばそうとしたり、脅かしたり、小細工がおもしろい。 

ボリス・ストルガツキイは 自分が編集長を務めたSF専門誌"Полдень. XXI век"の創刊号の巻頭言で この雑誌ではファンタスチカを幅広く取るとして、ヴェルヌからゴーゴリ、レムからブルガーコフ、 ウェルズからシュワルツまであらゆるスペクトルを含むと述べたが、シュワルツもまた 現代ロシア・ファンタスチカにとって、大事な作家のひとりです。だっておもしろいんだもの。

2014年7月6日日曜日

ザミャーチンのウェルズ論をめぐる論争

 先日に注文した «Эсхатология и утопия»(『終末論とユートピア』)という本と«Русская утопия в контексте мировой культуры»(『世界文化の文脈の中のロシア・ユートピア』)という論文集が届いた。著者と論文集の編者はヴャチェスラフ・シェスタコフという、1935年生まれの、ソ連時代から著名なユートピア研究者である。
 論文集には、スターリン時代の文化研究で知られるドイツのハンス・ギュンターや現代ロシアのアンチ・ユートピア小説の分析で知られるボリス・ラーニンの論文もある。シェスタコフ自身は「イギリスのユートピア的伝統の文脈におけるロシア・ユートピア」というタイトルの50ページ以上になるやや長い論文を執筆している。
 『終末論とユートピア』の方は、「キテージ伝説における終末論的モチーフ」、「ロシアの文学ユートピア:その未来像」、「ロシアにおける愛の哲学」といった章のほか、コンスタンチン・レオンチエフ、ニコライ・ベルジャーエフ、アレクセイ・ローセフといった思想家、象徴主義の画家であったミハイル・ネステロフの創作における宗教哲学的モチーフ、唯美主義のユートピアとしてのディアギレフの雑誌『芸術世界』を扱った章があり、テーマは多岐にわたっている。
 「ロシアの文学的ユートピア」の章では、チェルヌィシェフスキイの『何をなすべきか』やドストエフスキイの短編「おかしな男の夢」、ボグダーノフの『赤い星』など、ロシア文学に現れたユートピア思想を概観し、『われら』の作者であるザミャーチンをユートピア文学の一つの達成点とみている。
 シェスタコフの主張は、ザミャーチンが執筆した「ハーバート・ウェルズ」(1922)という評論によって補強される。シェスタコフは、ザミャーチンが欧米のユートピア文学だけではなく、ロシアのユートピア文学にも触れたという点で、ザミャーチンのウェルズ論の最後の文章をそのまま長く引用している。ザミャーチンは、クプリーンの「液体太陽」やボグダーノフの『赤い星』のほか、オドエフスキイやセンコフスキイといった19世紀前半の作家名をロシアのファンタスチカの先駆的作品としてあげ、自分の同時代人であるエレンブルグの『フリオ・フレニトの遍歴』と『トラストDE』、アレクセイ・トルストイ『アエリータ』の名を紹介している。ちなみに、ザミャーチンはこの評論の中で、自作の『われら』についても作品名を公表している。よほどの自信作であったに違いない。『われら』はソ連ではペレストロイカ期まで出版されなかった作品であるが、作品自体は1920年代には文学者内では有名で、ロシア・フォルマリズムの代表的人物である評論家ユーリイ・トゥイニャーノフの文芸時評«Литературное сегодня»(1924)では、20年代のロシアSFの成功例として『われら』が取り上げられている。
革命後のザミャーチンは、ゴーリキイの推薦により『世界文学』という出版社でイギリスとアメリカの文学を紹介する仕事に従事しており、ウェルズの作品選集を編集し、その序文を多数執筆している。ウェルズの初期の『タイム・マシン』や『モロー博士の島』といった古典的SF小説だけではなく、ユートピア小説である『解放された世界』や、『トーノ・バンゲイ』といったリアリズムの小説まで幅広く目を通し、俗物に対する皮肉な筆致と作家自身の持つ夢想性という、ウェルズの作家性を非常によく理解して執筆している。ザミャーチンの評論はウェルズ論としても非常に貴重な文献であるのだが、それだけではない。トマス・モアやカンパネッラ、カベーらの古典的な静的なユートピア小説から、ダイナミックなファンタスチカへと様式が変化するにあたって、決定的な役割を果たしたのがウェルズであると指摘するのである。欧米文学の歴史的系譜を踏まえたうえで、ユートピア文学の変容を論じた評論であり、ザミャーチンが1920年代当時のロシアの作家の中では、イギリスやアメリカのSF文学に対して抜群の理解を示す当代きっての欧米文学通であったことを証明するものである。
 ところが、ザミャーチンのユートピア論に反旗を翻した人物がいた。それはウラジーミル・スヴャトロフスキイという人物で、彼が執筆した『ロシアのユートピア小説』(1922)という評論は、実はザミャーチンのウェルズ論への反論である。つまり、ザミャーチンがロシアのユートピア小説の伝統にあまり触れずに、ユートピア小説からファンタスチカへの移行を論じたのに対し、スヴャトロフスキイは19世紀以来のロシア文学におけるユートピア小説の伝統と空想的社会主義のユートピア論の系譜に言及し、ザミャーチンの論述が不十分であると批判する。細かいことだが、この批判は本文中ではなくて注の中でされている。
 要は、シェスタコフがザミャーチンのロシア文学の伝統への理解として引用した箇所を、ザミャーチンの同時代人であるスヴャトロフスキイはロシア文学への伝統の理解としては不十分であると批判していたのである。
 スヴャトロフスキイはオドエフスキイとセンコフスキイ以外に、シチェルバトフや空想的社会主義におけるユートピア的伝統などをあげ、ロシア文学における豊かなユートピア的伝統を提示する。それは、シェスタコフが示したような、終末論的傾向を帯びたロシアの思想家たちの想像力とは異なっている。西欧ではなくてロシアの伝統を提示するという方向性において、スヴャトロフスキイとザミャーチンの立場の違いは明瞭であり、同時代のコンテクストに戻せば、ザミャーチンはロシアのユートピア小説の流れにいたというよりも、西欧の文学への窓口にいた人物として評価すべきであろう。シェスタコフは欧米文学の幅広い伝統を踏まえたうえで、ロシアのユートピア文学の位置付けに取り組んだ研究者であるが、彼のこの論文におけるザミャーチンの評価に関しては私は違和感を持っている。
ザミャーチンとスヴャトロフスキイのエピソードはささいなものにすぎない。しかし、その後のロシアSFの研究史を振り返ると、ユートピア研究とSF研究は、本来は領域が重なる部分が多いはずなのに、どこか疎遠に、めいめいに互いに干渉せずに進んできたという感を禁じえない。1970年代にはアナトーリイ・ブリチコフ(主著は«Русский советский научно-фантастический роман»)という偉大なロシアSF研究者が登場したが、ユートピア研究との接点は薄かった。そうしたSF研究とユートピア研究の分岐点が、ザミャーチンとスヴャトロフスキイの対立に端を発していると言えば、あまりにもうがちすぎであろうか。ともあれ、SFをユートピア小説から転進したものと見たザミャーチンと、SFをユートピア的伝統に位置付けていたスヴャトロフスキイの観点の違いは明瞭である。

ちなみに、スヴャトロフスキイのこの著作は早稲田大学に所蔵されている。スヴャトロフスキイは『ユートピアのカタログ』(1923)という書誌も編集しており、これは東大が所蔵しているのだが、筆者は未見である。一度、ぜひ見てみたいものである。