2017年6月17日土曜日

カーツ『ソヴィエト・ファンタスチカの歴史』私的書評

 最初にあらためてことわっておくが、この本は偽書である。この本が刊行されたのはまさに暴挙、もとい快挙である。訳者解説では、光栄にも私の著作にたくさん触れてくださっているが、まさか、梅村さんがカーツのこの著作を翻訳する刺激になるとは思ってもみなかった。まるでカーツのこの著作を読むための副読本のような扱いである。ソヴィエト・ファンタスチカ万歳!
以下に記すのはごく私的な感想である。私はいかにして『ソヴィエト・ファンタスチカの歴史』を読み進めたか。どうせ嘘ばかり書かれているんだろうと思って読み始めると、ダルコ・スーヴィン、マイヤ・カガンスカヤ、テリー・プラチェット、ヴォルフガンク・カザークの名前が出てくる。ダルコ・スーヴィンが「ギャラクシー」に書評を書いたなどというのはもちろん嘘だ。マイヤ・カガンスカヤはロシアSFに相当詳しい人なら名前を知っているが、ソ連時代にイスラエルに亡命した評論家でストルガツキイ兄弟やブルガーコフについてのエッセイを書いた人である。「22」というのはイスラエルに亡命したロシア系ユダヤ人が創刊した雑誌で、1970年代から80年代にかけては大きな影響力を持っていた。彼女が「22」に書評を書いたのはもちろん嘘である。SFファンなら、テリー・プラチェットの名前を知っているのは当然だ。もちろんプラチェットが何かを書いたのは嘘だ。ところで、『20世紀ロシアSF人名事典』の著者と記されているヴォルフガング・カザークとは何者?
そんな人名事典を著している人を知らないのであれば大問題だ。私は、本を横に置き、震える手で検索をした。ヴォルフガング・カザーク。ドイツのスラヴ研究者。代表作に『20世紀ロシア文学事典』(1996)。その事典のPDFも見つかった。独力で20世紀ロシア文学の重要な項目を取り上げて執筆した、とんでもない大部の著作である。不勉強にして私はこの実在する偉大なスラヴ研究者を知らなかった。その存在を教えたのはカーツ博士の偽書『ソヴィエト・ファンタスチカの歴史』! 
このように、私は偽書により真正な知識への一歩を示された。まだ序文である。私は、ガーコフ編の『SF人名事典』(1995)を手元に置き、人名が出てくるたびに実在する人物なのかそうでないのかを調べながら読んでいる。これはいったい何のテストなのか? 確かに微妙なずれはいちいち笑える。ペレーヴィンが1979年に「ルナリウム」という文集に地下出版で『オモン・ラー』を発表したというのは嘘八百であるが、「メトロポーリ」という超有名な地下出版の文集がその年に出たのは事実である。「ルナリウム」を編集したのはウラジーミル・シェルバコフとされているが、同名のSF編集者は実在した。ただし、1970年代から80年代にかけてソビエトSF界で専横をふるい、SFファンから批判を受けていた人物である。実在のシチェルバコフについては、波津博昭氏が会見した際のレポートが必読である(SFマガジン1985年10月号と1993年4月号)。波津氏によるふたつのレポートは涙なしには読めない。
カーツ博士の本に戻ろう。この偽書のメインアイデアはひとつである。社会主義リアリズムにかわって科学的ファンタスチカがスターリン時代の文学の教義とされた改変世界を描いている。その前提には、何の取材もしなくても、想像力をはばたかせてあることないことを書けるSF文学の優位性があるとされている。実際にはそうではなかった。スターリン時代にはSFはほぼ死滅した。遠い未来のことを書くよりも、現実の社会主義建設を書け、つまり、「近い標的」を描けという理論が横行したのである。しかし、その結果として1930年代から50年代前半にかけて生み出された奇々怪々な作品群は、どういうわけかカーツ博士の紹介になる「カタパルト」や「天の境界」に似ている。つまり、歴史は改変されているのに結果は改変されていないのである。
この書を読んだ者は何を得るのか。月にカタパルトを打ち込んで気候変動を起こすとすれば、パリよりレニングラードが先に水没するというあのくだり? それとも、スターリンが月面分割をトルーマンに提案した伝説的場面? それとも、「ソ連SF界のルイセンコ」とまで評されるカザンツェフがクルグーゾフ派に分類されている箇所か? 
ちなみに、実在するSF作家、ウラジーミル・ネムツォフは、地球外を舞台にした冒険小説を書いておきながら「やっぱり地球が一番だ」と主人公に言わせたという。後に裁判にかけられてパリに亡命するアンドレイ・シニャフスキイ(短編「プヘンツ」は名作!)は、SF作家のくせに地球が最高だとしゃあしゃあと書くなという趣旨でネムツォフの小説をこき下ろした。これはカーツ博士の話ではなく、歴史的事実である。
ここまでくると、いっそのこと、完全に騙された方が快感である。解説にもあるとおり、ロシアの社会学者レオニード・フィッシュマンはこの本の記述を正しいと思って大真面目に自分の著作で引用したのである。フィッシュマンのその後の人生のことは真の著者アルビトマンも気にかけているらしい。運命の一冊とはこういう本のことを言うのであろう。付け加えておくと、フィッシュマンの著作は北海道大学が所蔵している。
ソ連時代の1970年、SF研究の先駆者であるアナトーリイ・ブリチコフは大部のモノグラフを著し、ロシアSFの通史を叙述した。ところが、奇しくも、カーツ博士による本著作が刊行された後、個別の研究はあるが、目立った通史は書かれていない。偽史が正史を駆逐したわけではあるまい。しかし、この偽史に対してオリジナリティを主張するのは大変な労力と才能を必要とする。下手をすると、正史なのに偽史扱いされる危険もはらんでいる。恐るべし、カーツ博士の呪い! 負けてたまるか。ロシアSFの本当の歴史にはカーツ博士のこの偽書に匹敵する面白いエピソードがまだまだあるんだぞ。
最近、オルタナ・ファクトという言葉をよく聞く。イーゴリ・チョールニイとエレナ・ペトゥホワによる«Современный русский историко-фантастический роман»(2003)によれば、歴史改変小説には二つのタイプがあるという。ひとつは、「ナチスが第二次世界大戦に勝利していたら」など、出来事自体が改変されるものであり、いわゆるalternative historyである。もうひとつは、「ジンギスカンは実は源義経だった」のように、事実は何一つ変わっていないが、歴史の解釈が変わるものであり、いわゆる「偽史」である。この区分で言えば、昨今流行のオルタナ・ファクトは「偽史」であり、カーツ博士の著作はalternative historyになるのではなかろうか。

最後に、この偽書は「世界浪漫派」というレーベルから刊行され、「小説(ロマン)は、ロマン的書物であというュレーゲルの言葉もついているのだが、真の作者の名前は、ロマン・アルビトマンというのである。まったく、ふざけるのもたいがいにしてはどうだろうか。

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