2014年6月15日日曜日

ボリス・ストルガツキイのロシアSF世代論

 ロシアSFにもいくつかの時代区分がある。1920年代のロシア革命後のユートピア的夢想の高揚期を「第一の波」、1940年代後半から50年代前半にかけて、スターリンの自然改造計画とも呼応した「近い目標理論」が吹き荒れた特異な時期を「第二の波」、1950年代後半から60年代にかけて、スプートニクの打ち上げと「雪どけ」が追い風となり、エフレーモフやストルガツキイ兄弟らが登場した、ソ連SFの中興期と位置付けられる「第三の波」、そして、1980年代後半から90年代にかけての「第四の波」に区分するのが一般的である。
 こうした世代論的な時代区分は、厳密に言えば作家の出生年とは関係がない。例えば、「第三の波」に分類される、イリヤ・ワルシャフスキイは1908年生まれ、ワジム・シェフネルは1915年生まれ、ストルガツキイ兄弟は兄のアルカージイが1925年生まれ、弟のボリスが1933年生まれであり、それぞれの間に大きな開きがある。ロシアSFの上記の時代区分は、作家が活躍した時期に応じて区分されたものである。
 さらに、こうした時代区分にある作家が属するのか属さないのかの判断には、多分に価値判断が含まれる。「第四の波」にモロダヤ・グヴァルジヤ派の作家が含まれることは決してない。
 したがって、たとえば「第四の波」を、出生年に基づいたある種の客観的なカテゴリーとみなすことはできないが、モロダヤ・グヴァルジヤ派の専横のもとでソ連時代には出版の機会に恵まれなかったが、セミナー等で腕を磨いて作品を執筆したという経験を共有した集団とみなすことは可能である。活躍した時代に応じて区分をするという意味では、作家を取り巻く出版状況との関係が現代ロシア文学の場合は非常に重要である。作家の出発時のスタイルが出版状況によって大きく左右されることを考慮すれば、出版状況というのは文学にとっては見過ごせない要因のひとつである。
 ところで、「第四の波」という表現と上記の時代区分は、SFファンでもあり、SF評論家でもあるセルゲイ・ベレジノイが1996年から97年にかけてFAQにまとめた文章で使われている。このベレジノイの論の時代区分の原型となったと思われるものが、ボリス・ストルガツキイが、1991年に刊行されたアンソロジー«Фантастика: четвертое поколение»(『ファンタスチカ:第四の世代』)に寄せた序文である。ボリス・ストルガツキイは「第四の波」ではなく「第四の世代」という表現を使用しているが、時代区分はベレジノイのものと全く同じである。

 20世紀のロシアSFの時代区分はここから始まると言っても過言ではない。以下にボリスの序文を紹介する。文中では「70年代の世代」と書かれているが、小説を書き始めたのが1970年代ということであり、作品の発表の機会が少しずつ広がったのは出版事情が変わり始めた80年代に入ってからである。



この作品集はソヴィエトSFの「第四の世代」、70年代の世代に属する作家たちの作品のみで作られている。
 ロシアのファンタスチカの歴史の本当に表面的な部分だけを眺めた場合でさえも次のような意味深長な事実が明らかとなる。ファンタスチカの運命はあらゆるソヴィエト文化全般の運命、とりわけ「偉大なる文学」の運命と非常に緊密に結びついていたと。考えてごらんなさい。
 第一段階。1920年代から30年代初めにかけて。嵐のような発展、「シュトルム・ウント・ドランク」、「黄金時代」、詩、建築、映画、演劇または絵画といった文化のあらゆる分野において現れた無数の新しい名前。新しい芸術の言語。非常に斬新なテーマ。大胆な探求と思いがけない発見。文化における真の革命は偉大で血にまみれた革命の継続であり、正しさを証明するものであった。
 そして、ファンタスチカにおいても全く同様のことが指摘できる。なんという作品! 錚々たる顔ぶれ! ブルガーコフ、アレクセイ・トルストイ、シャギニャン、マヤコフスキイ、エレンブルグ、カターエフ、プラトーノフ。新しい文学の開祖たちは例外なくこの時代にはファンタスチカに供物を捧げたかのように思われる。その供物もなんと輝かしいものであったことか! まさにその時、等級の少し劣る無数の星ぼしの中で、文学の地平線から姿を現そうとしていた一等星こそは、アレクサンドル・ベリャーエフ、未来の全てのソヴィエトSFの開祖、家長である・・・・・・。
 第二段階。1930年代半ばから50年代半ばにかけて。革命の後退。スターリン時代。国と文化を覆う黒雲。そのあと続く戦争、戦後の混乱、文化にとってはさらなる恐怖の時代。偽善と虚偽、盲信、二重思考、気の抜けた賛辞を程度を超えて並び立てる時代。その時代には、誠実で直截な言葉がこの上なく勇敢であり類稀なことであった。芸術家が現実世界を探求することは監獄の恐怖のもとで禁じられ、そして、ウソにまみれた世界を賞賛することを強いられた。舞踏会を支配しているのは卑劣な人間の偽善的行為と愚かな人間たちの狂信であった・・・・・・。
 そして、同じことがファンタスチカにおいても起こっていた! 「現実の生活に近づけ! 空想は人民に不要である!」というスローガンのもとでファンタスチカが現実から遊離するという逆説的な事態が生じていたのである。現在と未来の喫緊の諸問題の探求に代わって、でっち上げられたスパイ工作者や誰にも必要とされない自走式トラクターの精密な描写が、ばかばかしいほどに追求された。悪名高き「近い目標理論」が勝ち誇る。ファンタスチカから、それを文学たらしめる、驚異、謎、もっともらしさの三つ全てが整然と取り除かれる。理性が眠りに入ったためにサパーリンの«Однорогая жирафа»やネムツォフの«Семь цветов радуги»といった化け物が生み出された。
 確かに、暗黒時代においても力強い文化は輝かしい作品を生み出すことができる。たとえば、自然主義文学では「静かなるドン」または「スターリングラードの塹壕にて」といった作品が逆風のなかでも現れた。ファンタスチカにおいても同様に、もっともうち沈んだ恐怖の時代に現れたのがイワン・エフレーモフであった。彼の中編「星の船」と作品集「五つのポイント」は当時の空想的な屑紙の山の中で、真珠のように光り輝いていた。血を抜くことくらいはできるかもしれないが、偉大な文化の息の根を止めることはかなわぬ。
 第三段階。50年代後半から70年代後半にかけて。一回目の雪どけ。私たちの文化の新しい春。暗闇と寒さの数十年のあとの目覚め。その時代にあっても、ファンタスチカの世界での一大事件として、「アンドロメダ星雲」、新しい時代の最初の共産主義的ユートピア、私たちのファンタスチカにおける新しい時代の記念碑となる長編が現れたのである。
 「近い目標理論」をほんの二、三年で打ち砕き、現代のソヴィエトのファンタスチカの陣容が立ち上がる。60年代の世代を名乗ったのは次のような作家たちであった。アリトフ、ワルシャフスキイ、ヴォイスクンスキイ&ルコジャノフ、ガンソフスキイ、グロモワ、ドニェプロフ、エムツォフ&パルノフ、ポレシチューク、サフチェンコ、ストルガツキイ兄弟、少し遅れてビレンキン、キール・ブルィチョフ、ラリオーノワ、スニェーゴフ・・・・・・。
 奇跡のような時代が到来した。出版社モロダヤ・グヴァルジヤではセルゲイ・ジェマイチスとベーラ・クリューエワという、自分の仕事を本当に知りぬいた人物がファンタスチカを担当していた。当時は科学啓蒙雑誌が先を争って新進のSF作家の作品を掲載し、純文学の雑誌さえもファンタスチカに関心を抱き、すでに名を成したグラーニン、シェフネル、テンドリャコフ、レオーノフといった作家があらためてファンタスチカに注目した。
 しかし、この高揚も長くは続かなかった。60年代末には停滞がすでに訪れ始めた。過去が戻ってきたのだ。うち沈んだ悲運の時代がうごめいていた。当時、アレクサンドル・ガリチはこう歌った。
 
 昼のさなかでもファンファーレのしじま
 誉めそやされるのは考えこむばかりの痴れざま

 ファンタスチカに嵐のような不当な批判が押し寄せ、出版の機会は著しく狭められ、モロダヤ・グヴァルジヤ社のSF編集部の指導部も更迭され、かくして1960年代初めに築き上げられたものがなすすべもなく崩壊していく過程が始まった。
 ファンタスチカは「好ましからぬ」文学と宣告された。編集部では悪意に満ちた次のような定義が幅を利かせるようになった。「あらゆるファンタスチカは、完全な屑もしくは反ソヴィエト的である」。鬱然とした陰気な時代。モロダヤ・グヴァルジヤ社の新しい編集部は「空想的な」ファンタスチカという路線を採択したため、ファンタスチカは現在と未来の現実問題、さらには人間を研究するという課題全般からも遠ざかることになった。国内でのファンタスチカの出版は、そうでなくとも多いとは言えなかったが、著しく減少した。いまではわずかに2、3の「薄い」雑誌だけがいくらか定期的にファンタスチカを掲載し続けている。読者は本が刊行されるのを待ち焦がれたが、刊行される本はますます少なくなったし、若い才能あるSF作家に自分の頭を下げるところなどなかった。ファンタスチカは新しい力を引きつけるのをやめなかった。決してやめなかった! 単に出版の機会が狭まっていたに過ぎない。極度に強まったのは、上層部から認められ、何度もお墨付きを与えられた、いつもおなじみの無味乾燥なものの枠外に出ていこうとするあらゆるものに対する編集部の警戒であった……。
 私たちの文化全般ととりわけファンタスチカのこうした薄暮の日々についてはやがて一度ならず書き記されることになると思われる。いま私が強調しておきたい大事なことが2点ある。ひとつは、歴史に関するこの小さな端書きは、ファンタスチカとほかのすべての文化全般との間には非常に緊密な関係が存在したのであり、ファンタスチカは何か孤立して分離されたものではないと、何度でも証明するために書かれたということである。ふたつめに、私が特に指摘しておきたいのは、70年代の世代はきわめて恵まれない条件のもとで創作活動の道に入ったということである。
 なんと、こうした世代は若々しく、才気に満ちていることか! 何があろうとも、彼らはいたるところ、ソ連のあらゆる地域にまたがって登場し続け、とどめることはできなかった。
 タリンのミハイル・ヴェレル。ペルミのウラジーミル・ピロジニコフ。オデッサのボリス・シテルン。ノヴォシビルスクのゲンナジイ・プラシケヴィチ。ヴォルゴグラードのルキーン夫妻。モスクワではひとつの流派としてそっくり立ち上がった―バベンコ、ゲヴォルキャン、ポクロフスキイ、ルデンコ。そしてレニングラードでもひとつの流派として立ち上がった―ルィバコフ、ロギノフ、チビロワ、ジンチュク、ストリャロフ、イズマイロフ、ニキタイスカヤ……
 私はこうした若者たちを誇りに思う。彼らは書いていた。何があろうとも、歯を食いしばって書き、机の引き出しにしまうために書き、発表するなんの希望もないままで書き、書かずにはいられないというただそのためだけに書き、世界を自分の見方で見つめ、自分の頭で考えてそれを物語るという、自分の権利をしっかりと持って書いていたのだ。
 彼らにはつらいことであった。出版界は彼らとどんな仕事もしたがらなかったし、読者は彼らのことは何も知らなかったし、知りようもなかった。彼らには絶望的につらいことであった。こんなにつらいことも人にはありうるのだ。自分が非常に苦しんだ末に得た、全力を注いで憔悴した自分の愛する仕事の成果を人前に出すことができない人には。
 栄光と賞賛が、あなたたち、70年代の世代にありますように! あなたたちは屈しなかった。耐え抜いて、わずかなパンのためにへつらうことをせず、自分を売り渡さず、やっつけ仕事に走らず、権力を持つ者にぺこぺこせず、「水牛の聖餐」を受けることもなかった。70年代の世代よ、私はあなたたちを誇りに思う。
 あなたたちはファンタスチカの分野の先人たちが使ったあらゆる芸術的様式や方法を例外なく旺盛に用いた。あなたたちはあらゆるものを書くことができるし、その能力もある。社会的ファンタスチカも哲学的ファンタスチカも、ファンタジーもユーモアファンタスチカも、諷刺も歴史ファンタスチカも書くことができる。60年代にはほとんど見られなかった、異化効果を用いた小説でさえものにした。だが「科学的」ファンタスチカだけはあなたたちはほとんど書いてはいない。明らかにその時代は過ぎ去った。科学的ファンタスチカはあなたたちにも、そして読者にも興味を引く存在ではなくなったのだ……。
 あなたたちが今もやはり楽ではないということを認めなくてはならない。もちろん出版の可能性は高まっているし、あなたたちのなかのある者はすでに自分の作品集を出した。ある者は作家同盟に加入することさえできた。しかし、出版がノーマルな、宇宙飛行士の言葉を借りれば「常態」となるまでには、まだ長い時間がかかる。自分の出版社や雑誌がないうちは、どの誠実な作家にとっても恵まれた時代は夢見ることしかできないのだ。その時代であっても書くことは以前と同じようにつらい。しかし発表するのはかつてないほど楽になるだろう……。

P.S.
 ちなみに、ボリスの文中で「化け物」と書かれた、ネムツォフの長編«Семь цветов радуги»は、1950年代末にはアンドレイ・シニャフスキイから酷評されて論争を巻き起こしたが、ウラジーミル・ソローキンはけっこう好みらしく、 『青い脂』ではリキュールの名前として登場する(邦訳ではリキュール『七色の虹』として。16頁参照。)。

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