2014年5月17日土曜日

モロダヤ・グヴァルジヤ派

 1970年代半ばから80年代にかけてのロシアSF史を叙述するうえで、モロダヤ・グヴァルジヤ派(молодогвардейцы)のことは避けて通れない。
 モロダヤ・グヴァルジヤというのは出版社の名前で、ロシア革命後まもない1922年に設立された由緒ある出版社である。1920年代にはピオネールやコムソモール運動のなかで主導的な地位を占めた。1987年までコムソモールの中央委員会の出版部門であった。
 モロダヤ・グヴァルジヤというのは「若き親衛隊」という意味だが、文学作品としては、コムソモールの同盟歌となったベズィメンスキイの詩(1922年)や第二次世界大戦時の著名な戦争文学であるファジェーエフの長編のタイトルにとられた言葉であり、コムソモールと切り離すことはできない。ところが、現在の政権与党統一ロシアの青年組織も同じくモロダヤ・グヴァルジヤと名乗っている。ソ連が崩壊して相当経過しているのに、そうしたネーミングのセンスを使う彼らの意識のありようが垣間見えて興味深い。
 話を戻して、ソ連時代の出版社としてのモロダヤ・グヴァルジヤ社はコムソモール系の出版社として、若手作家の出版に力を注ぎ、看板作家として、ショーロホフ、オストロフスキイ、ガイダール、ボンダレフ、アイトマートフらを擁した。
 SF出版に関しては、1950年代後半から編集部に加入したセルゲイ・ジェマイチスとベーラ・クリューエワの存在を見逃すわけにいかない。イワン・エフレーモフやストルガツキイ兄弟の作品を世に送り、1960年代のロシアSFの「第三の波」を出版界から支えた。モロダヤ・グヴァルジヤ社はSFの分野を代表する出版社となった。
 ベーラ・クリューエワが主として担当した叢書「現代ファンタスチカ全集」«Библиотека современной фантастики»(1965~76)は当初15巻と予告されたものが25巻となり、さらに5巻が補巻として刊行されるなど成功を収めた。ブラッドベリ「華氏451度」、レム「星への帰還」、アシモフ「永遠の終わり」、シマック「都市」、ウィンダム「トリフィドの日」、安部公房「第四間氷期」、ブール「猿の惑星」、ヴォネガット「プレイヤー・ピアノ」、チャペック「絶対子工場」、エフレーモフ「アンドロメダ星雲」、ストルガツキイ兄弟「神様はつらい」、サフチェンコ«Открытие себя»といった長編のほか、多くのアンソロジーが編まれ、英米SFの紹介に果たした功績は大きい。
また、120巻を超える現代ソビエトSF叢書«Библиотека советской фантастики»(1967~91)は、ソ連時代後期を代表するSF出版シリーズである。刊行部数は約10万部であった。
さらに、1962年から92年まで刊行された年鑑アンソロジー「ファンタスチカ」 «Фантастика»は同時期に刊行されていた年間アンソロジー「エヌエフ」«НФ»と並んで、重要である。ソ連時代にはSF専門誌が刊行されなかったため、SFの中短編を発表する舞台はこうした年鑑アンソロジーに限られていた。
しかし、1973年にジェマイチス、1974年にクリューエワが相次いで編集部から追われ、代わってユーリイ・メドヴェーデフが実権を握るにともない、モロダヤ・グヴァルジヤ社はメドヴェーデフを中心とした派閥に私物化されるようになる。彼らはストルガツキイ兄弟を敵視し、自らをエフレーモフの正統な後継者と強弁した。ソ連時代の出版は計画経済下に置かれていたため、出版計画の策定の段階からどの作家の作品を出版するかという選定に際し、編集部の力が非常に大きかった。ストルガツキイ兄弟の代表作である『ストーカー』は、雑誌「オーロラ」に1972年に掲載されたが、1980年にモロダヤ・グヴァルジヤ社から彼らの作品集«Неназначенные встречи»に収められて刊行されるに当たり、編集部から執拗な改稿の要請を受け、作者の構想とはかけ離れた形で編集された形で出版された。このあたりの事情はボリス・ストルガツキイの回想録«Комментарии к пройденному»に詳しい。もちろん、現在の版では作者のオリジナル版に復元されているが、ボリス・ストルガツキイにとっては、1980年版は読み返したくもない代物になったそうである。
 1980年代に隆盛を迎えるソ連のSFファンの活動は、ストルガツキイ兄弟やキール・ブルィチョフらの作品を出版せず、質の低い作品を出版し続けるモロダヤ・グヴァルジヤ社への批判という形を取り始めた。ファンは自分たちでヴェリーコエ・コリツォ賞というSF賞を設立し、運営し始めたが、大きな出版社から刊行されたということではなく、自分たちの評価を基準に受賞作を選んだ。1982年の短編部門の受賞作はミハイル・ヴェレルの«Кошелек»という作品であるが、現在では現代ロシアを代表する作家となったヴェレルも、当時の出版界では全く無名の存在にすぎなかった。しかし、こうした作家を見つけ出し、ファンで共有することで、SF出版界を牛耳っていたモロダヤ・グヴァルジヤ派に対抗する力が蓄えられていった。
 肝心のモロダヤ・グヴァルジヤ派の人となりについては、波津博明氏によるSFマガジンでのレポート(1985年10月号と1993年4月号)に詳しい。波津氏は1985年に、モロダヤ・グヴァルジヤ派の実力者であるウラジーミル・シチェルバコフを訪ねたが、当時のシチェルバコフはストルガツキイ兄弟を歯牙にもかけない態度であった。しかし、1991年のソ連の崩壊により、モロダヤ・グヴァルジヤ派のSF出版界での地位は失墜し、シチェルバコフ自身も凋落する。波津氏にシチェルバコフが自分の本を見せ、この作品には君が登場するんだよ、実は聖母マリアが私の枕元に現れてと真顔で話すくだりは、ソ連崩壊と人間の変容をまざまざと見せつける生々しいレポートとなっている。
 波津氏のレポートからもうかがえるシチェルバコフの作品のオカルト性だが、これはシチェルバコフひとりの要素ではなかった。80年代のSFファンが批判の対象としたのは、出版界の私物化という点だけではなく、モロダヤ・グヴァルジヤ派の作品が、エフレーモフを継ぐSFの本流を自称しながら、反科学的な作品を書いているという点であった。モロダヤ・グヴァルジヤ派と闘った批評家のフセヴォロド・レヴィチは、モロダヤ・グヴァルジヤ派の文学を「ゼロの文学」«Нуль – литература»と呼んで痛烈に批判した。
 おおむね、モロダヤ・グヴァルジヤ派に属すると言われるのは、彼ら自身が「エフレーモフスクール」«Школа Ефремова»と読んだ作家に分類される人物である。すなわち、メドヴェーデフとシチェルバコフのほかには、セルゲイ・パヴロフ、エヴゲーニイ・グリャコフスキイ、ミハイル・プホフ、エヴゲーニイ・スィチ、オレグ・コラベリニコフといった面々がいる。この中で、プホフとコラベリニコフはよい作品も書いたと評価されているが、大多数の作家は今日、全く読まれていない。コラベリニコフをはじめ、モロダヤ・グヴァルジヤ派に属した作家は、ソ連が崩壊するとともに作品発表の機会を失い、筆を折っていった。
 ところが、運命の変転はこれでは終わらない。ソ連崩壊後の混乱の中で、当初はSFに限らず、翻訳文学が出版界を席捲した。ソ連時代に禁じられていた欧米の文学が自由に出版できるようになり、推理小説、ハーレクインなどのロマンス小説が大流行した。SF界も、サンクト・ペテルブルグに拠ってターボリアリズムを標榜したアンドレイ・ストリャロフやヴァチェスラフ・ルィバコフらを除けば、90年代初頭はロシア語作家にとっては受難の時代であった。しかし、90年代半ばには翻訳ブームが終焉し、国産文学の需要が徐々に回復し始める。SFでは、ボエヴィクと呼ばれる、アクションを主体にしたスペースオペラを含めた冒険SFやファンタジーのブームが訪れる。また、ソ連時代には出版計画の問題で厳しく制限されていた長編が出版界から求められるようになる。長編を書ける作家を求める出版界の要請にこたえたのが、若手ではセルゲイ・ルキヤネンコやニーク・ペルモフであったが、実はそれだけではなく、モロダヤ・グヴァルジヤ派の一部が長編の多作に対応できるタフな職業作家としてリサイクルされたのである。このようにして、グリャコフスキイは長編SF作家として90年代半ばに復活を果たし、アレクサンドル・ブシコフやユーリイ・ニキーチンはベストセラー作家としての地位を築く。
 出版事情の変化に応じて、中短編が中心だった古い作家が長編作家としてリバイバルするというのは、文脈は全く異なるが、第二次世界大戦後の日本の推理小説界を連想させて非常に興味深いものがある。

2014年5月16日金曜日

ロシアSFファンダム史

ウクライナのSF事情の項で、モロダヤ・グヴァルジヤ派などと書きましたが、何のことかわからないと方も多いと思います。

ロシアのSFファン活動の歴史は1970年代末から活性化し、80年代に黄金時代を迎えます。90年代にはかつてのファンが作家になったり、出版人になったり、評論家になったりと、ファンのプロ化とでも言うべき現象が起こり、ファンダムの存在意義が問い直されることになります。本のないソ連時代に本を求めたファンの活動と、ソ連崩壊後の本があふれる時代にファンは何をすべきなのかという問いが胸に突き刺さります。

昔に書いた「1980年代ロシアSFファンダムの構造と変動」はこちらからご覧になれます。
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/47674

2014年5月11日日曜日

ウクライナのSF事情

 ウクライナで政変が起きて、その余波でクリミアがロシアに編入されるなど混乱が続いている。ウクライナ在住のロシア語SF作家はかなり多く、有力な作家も輩出している。すぐに名前が浮かぶ作家でも、マリナ&セルゲイ・ジャチェンコ、ヤナ・ドゥビニャンスカヤ、イリヤ・ノヴァク、ウラジーミル・アレーネフ、評論家のミハイル・ナザレンコ、編集者のイラクリイ・ワフタンギシヴィリ(キエフ)、ゲンリ・ライオン・オルジ(ドミートリイ・グロモフとオレグ・ラディジェンスキイの共作のペンネーム)、アンドレイ・ワレンチノフ、アンドレイ・ダシコフ、フョードル・チェシコ、アレクセイ・ベスソノフ、ウラジーミル・スヴェルジン、アレクサンドル・ゾリチ(ハリコフ)、ヴィタリイ・ザビルコ、グレーブ・グサーコフ(ヤロスラフ・ヴェロフの筆名で執筆)(ドネツク)、ユリヤ・オスタペンコ(リヴォフ)などがいる。こうした作家が、今後、混乱が続くウクライナでロシア語作家としてどういう姿勢で書くのか非常に気がかりである。ソ連崩壊後にウクライナの公用語はウクライナ語になったとは言え、その後もロシア語で書く作家が続々と輩出してきた地域である。ウクライナがロシア語文化圏にとどまるには、今回の政変後の混乱はあまりにも大きな傷となったと思わざるをえない。今回はウクライナのSF事情を少し歴史的に振り返ってみたい。
 ソ連時代は、それぞれの民族語での創作がそれなりに奨励されたという側面もあり、ウクライナでもウクライナ語で創作する作家がいた。有名なのはオレシ・ベルドニク(1926~2003)で、1971年に発表された長編«Зоряний Корсар»はフランス語に翻訳されるなど、ウクライナを代表するSF作家と目された時期もあった。ミコラ・ルデンコ(1920~2004)は60年代半ばにデビューし、70年代前半までSF作家として作品を発表した。しかし、このふたりはソ連に1975年のヘルシンキ宣言の遵守を求める人たちによって作られた人権擁護団体のウクライナヘルシンキグループの活動に関わり、政治的活動を強めていく。ソ連当局からはウクライナ民族主義として非難され、ルデンコは逮捕され、のちに亡命を余儀なくされた。ルデンコのことは深見弾さんもSFマガジンで記事にしている。
 こうした事情と関係しているのかどうかわからないが、ロシアのSF界のベルドニクやルデンコに対する反応は冷淡で、ガーコフ編のSF人名事典«Энциклопедия фантастики»のふたりの項目には、彼らの作品自体が、1970年代から80年代にかけてソ連のSF出版界を牛耳ったモロダヤ・グヴァルジヤ社の派閥の民族主義的、反科学的傾向に共鳴していると非難されている(項の著者はペルミのSFファンであるアレクサンドル・ルカーシン)。ベルドニクに至っては、ロシア革命前の神秘主義的傾向の強い女性SF作家、ヴェーラ・クルィジャノフスカヤの名前が引き合いに出されて批判されている。ルカーシンはストルガツキイ兄弟やブルィチョフの作品を愛するファンとして、彼らを抑圧したモロダヤ・グヴァルジヤ派の行動は許せるものではなかった。SF出版に関わっているくせに、ストルガツキイ兄弟らの作品は出版せず、愚にもつかない、むしろ反科学的なオカルト的作品を出版して出版社を私物化しているではないかというのが、モロダヤ・グヴァルジヤ派への非難の含意であった。したがって、ルカーシンの表現は、SFファンとしては最大級の非難である。しかし、ベルドニクやルデンコは直接にモロダヤ・グヴァルジヤ派とは関係がないわけで、あくまでも作品の内容のこととは言え、こうした批判の方法はまさしく党派的な表現と言わざるをえない。
 一方で、ソ連時代からロシア語で執筆する作家もウクライナには存在した。ソ連時代には、キエフは出版規模ではモスクワに次ぐ第2位の地位を占めており、重要な都市であった。キエフには60年代を代表する本格的なSFの作家であったウラジーミル・サフチェンコが健在で、70年代からはボリス・シテルンがボリス・ストルガツキイのセミナーに参加するなどして腕を磨き始めた。クリミアのシンフェローポリは、スヴェトラーナ・ヤグポワが80年代にセミナーを開催してダニエリ・クルーゲルが参加し、1988年にはレオニード・パナセンコが出版社«Таврид»の編集部に入るなど、ロシア語SFの拠点のひとつとなっていた。また、80年代末に、セヴァストーポリではアンドレイ・チェルトコフとセルゲイ・ベレジノイが旺盛なSFファン活動を開始した。ウクライナ南部のニコラエフでも後に作家となるウラジーミル・ワシリエフが80年代末からファン活動を始めていた。
80年代末から90年代初頭にかけてのウクライナは、ヴィタリイ・ピシチェンコが主導した全ソ新進SF作家創作協会«ВТО МПФ»の影響も大きく、協会が刊行したオリジナル・アンソロジー«Румба фантастики»シリーズには、リュドミラ・コジネツやレフ・ヴェルシニンといった当時の新進作家の力作が収められた。コジネツは、80年代のロシアSF界にはまだ珍しかったファンタジーを書く貴重な存在であった。
一方で、1990年には、全く小説家としての経験がないリヴォフ在住のウラジーミル・クジメンコの長編«Древо жизни»がソ連の全国的な書評紙である«Книжное обозрение»に連載されるなど、80年代末から90年代初頭にかけてのウクライナのSF界では、雑多な流派が活発に動き始めていた。
ところが、ソ連崩壊により、全ソ新進SF作家創作協会の活動は停止し、クリミアのSF界も停滞した。この中で、まったく新しく台頭したのが、オルジらハリコフ在住の作家の活動である。1990年代前半に欧米のファンタジーの翻訳に携わっていたオルジは、1991年から«Второй блин»という作家や編集者、翻訳家、イラストレーターなどを集めた出版関係の企画会社を設立して人脈を築いた。オルジ自身は90年代半ばからヒロイックファンタジーの長編を量産し始め、同郷のワレンチノフ、ダシコフらとともにSF出版界に進出した。90年代後半のロシアSF界は、翻訳に席捲されていた市場がロシア語作品に回帰する時期であり、長編を量産できる作家が求められていた。オルジのほか、ワレンチノフ、ジャチェンコ、スヴェルジン、ベスソノフらウクライナ出身の多くの作家がこの潮流に呼応し、出版社の期待に応える働きぶりを見せた。ロシアのファンタジー長編の基礎を作った作家は、マリヤ・セミョーノワ、ニーク・ペルモフ、エレナ・ハエツカヤ、ミハイル・ウスペンスキイ、スヴャトスラフ・ロギノフであり、歴史改変小説の基礎を作ったのはヴャチェスラフ・ルィバコフ、ワシーリイ・ズヴャギンツェフ、アンドレイ・ラザルチュークであるが、シリーズもののファンタジーや歴史改変の類型に肉付けしたのがオルジらウクライナのロシア語作家であったと言える。また、オルジの初期作品にはロジャー・ゼラズニイの影響が濃厚であるとの指摘も見過ごせない。ゼラズニイは90年代初頭に翻訳された英米SF作家ではもっとも受容された作家であった。リガのポラリス社が1995年から97年にかけて刊行した叢書「ロジャー・ゼラズニイの世界」は全29巻にも及んだ。
1999年からはハリコフでSFコンヴェンション「ズヴョズヌイ・モスト」が毎年、開催されるようになり、ロシア語SF界でのウクライナ在住の作家やファンの地位が相当なものに上ることを示した。2004年からはキエフで「ポルタル」、2008年からはクリミアで「ソズヴェズディエ・アユ=ダグ」というSFコンヴェンションも開催されるようになった。2006年と2013年にはユーロコンがキエフで開催されるなど、国際的なSF界での地位も向上している。
 ウクライナのロシア語SF作家の比重はロシアSF界においても大きな位置を占めている。オルジとジャチェンコは現代ロシアSFにとって欠かせない作家であるし、2000年以降も、ゾリチやドゥビニャンスカヤ、オスタペンコ、ヴェロフといった様々な傾向の作家が登場している。商業的には成功を得られなかったが、2003年から09年まで、キエフではSF専門誌「レアリノスチ・ファンタスチキ」が刊行され、グルジア出身のワフタンギシヴィリが編集長を務めた。一様ではないが緩やかに関係を持ちながら展開してきたウクライナのSF界が今後どのような道を進むことになるのか。ポルタルはこれまでウクライナ語のSF的作品にも賞を贈ってきた。2010年にはウクライナのSFファンの全国組織であるВсеукраинское общество любителей фантастики(ВОЛФ)も設立され、ウクライナ語で執筆するウラジーミル・エシキレフも参加している。エシキレフの作品はロシア語にも翻訳されて出版されているが、こうした流れが今後どうなるのか注目しておきたい。

ロシアSF人名事典

ロシアSFの人名事典です。

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